【川玉】さよならは告げずに
その日、玉森は珍しく朝日が昇るとほぼ同時刻に起床した。理由は昨日川瀬が「今日ハ早ク帰ルヨ」と言ったものだから、彼の好きなオムレツライスを用意してやったのにも拘らず、いつまで経っても帰ってこないものだから、彼の分の食事を自分の胃の中に収め、そのまま普段よりだいぶ早くふて寝したからだろう。
それなのに、と違和感を感じる。川瀬の気配が感じられないのだ。普段なら窮屈な一人用ベッドで抱き合いながら眠り、たとえ彼が遅く帰宅しても早朝であれば抱きしめられているというのに、その温もりすら玉森には残されていないのだ。
全く、どうしたのだ。と玉森は深いため息を吐き、居間へと向かう。一度彼が帰ってきているのであれば、新聞がテーブルの上に置かれているからだ。しかしテーブルの上に新聞が置かれている事もない。当直でそのまま病院に居るのだろうか。それならば折角私が早起きをしたんだ。新聞の一つくらい取ってきてやろうと郵便受けへ向かう。新聞小僧の朝は早い。まだ日も登り切っていない紫の空だというのに、それは雑に投げ込まれていた。そこで玉森は驚くべき見出しを見る事になった。
――帝大ノ妖艶探偵、死ス!
その見出しが目に入り、玉森は唖然とした。テイダイノ、ヨウエンタンテイ、シス?まさかとは思うが、川瀬の事ではないだろう。何故なら川瀬と言う男は既に帝大を卒業し、今は帝大付属の病院で研究医として働いているからだ。第二の帝大の妖艶探偵が現れたのか、と思いたいがこの胸のざわめきは何だろう。
「にゃはは……まさかな」
呟き、直ぐに屋敷へと踵を返す。そんな筈無いだろう。あの川瀬が死ぬなんて。憎まれっ子世に憚るということわざもあるくらいだ。あの川瀬がそう簡単に死ぬわけがない。そう思いながらも、玉森の心音はどくどくと鼓膜を揺らす。
居間に着き、テーブルに新聞を置く。食事は二人分用意しておいた方がいいだろうか。私は優しいから、帰ってきた彼に「昨日ハ早ク帰ルト言ッテオキナガラナンダコノ時間ハ!」と怒鳴ってやろうと考えると、思考を遮るように、けたたましく電話のベルが鳴り響いた。
「はい、池田です」
「こちら浅草警察署です。池田瑛一さんの本人確認を行ってほしいのですが」
「は……?」
警察署?本人確認?久々に聞いた彼の本名に唖然とする。何を本人確認することがあろうか。彼は今病院に居るのではないだろうか。
「すいません。人違いではないですか」
「いいえ、確かに連絡先にはこの電話番号が……」
「……分かりました、向かいます」
何かの冗談だろう。そういえば水上の死体確認に行った時を思い出す。あの時は梅鉢堂で睡眠をとっている所、川瀬に一階からたたき起こされたのだ。身支度を整え、小一時間電車に乗る。そう言えばあの時彼は雑菌が入るから、と息を止めていたことを思い出した。
◆◆◆
浅草署に着くと、そこにはまるで眠りに着いているかのように美しい顔があった。良く見慣れた顔だ。自分の、愛した顔がそこにあった。
「池田瑛一さんでお間違いないでしょうか」
「……えぇ、確かに彼は、池田瑛一です」
まるで自分の口からこぼれたとは思えない、淡々とした声だ。どうしてだ。何故、私を置いていった。
「死因は、電車に弾かれそうになった子供を助け、代わりに彼が身代わりに……」
「にゃはは……お前、heroになれたではないか」
いつだったか、直治くんが奇傑ゾロのゾロになりたかったという話を思い出した。川瀬は下ラナイと言ったが、巷ではhero扱いを受けることになるだろう。
「手荷物はこちらです。本日はお疲れさまでした」
そう言われ、彼の手荷物を持って帰る。揃いの腕時計、きっちりと書き込まれた手帳にいつだったか、新調したペンケース。彼の持ち物なのは、近くで見てきた自分が一番わかる。玉森は、それらを持ち帰りながら、浅草警察署を出た。
呆然とし、ただ彼の手荷物を持ちながら空を眺める。空は彼が死んだことには無関心の様だ。日照りが強く、雨とは無縁だと言わんばかりに雲一つない。
「ねぇ玉森くん。俺が死んだら一緒に死んでね。それくらい俺のこと、好きでいて」
ふと乗り過ごした電車を待つ駅での会話が呼び起こされる。
「なぁ川瀬、私は死ぬのが怖いよ。どうすれば良い……?」
そこで、ふとカフェのガラスに自らの疲弊しきった顔が浮かび上がる。そこに現れる、水色の瞳。
「……そうか、その手があったか」
そうだ、水上の時もそうだった。失ってしまったのであれば、時を戻せば良い。時の戻し方は彼に橋姫の力が乗り移った時、言っていたはずだ。ある場所に過去の水が保存されていると。玉森は、財布の中身を確認し、そのまま駅へと向かった。
◆◆◆
そこに広がるは一面の田んぼ、帝都に居ては見られぬ光景、鮮やかな向日葵が咲き誇っていた。訪れる場所はただ一つ、水前寺家の蔵だ。川瀬はそこに過去に戻る手段があると言っていた。
何も変わらぬ光景に、実家より先に村一番に目立つ、水前寺家へと足を運ぶ。すると、そこには予想もしていない光景があった。
「な、なんなのだこれは……?」
水前寺の蔵の前には、がたいの良い軍人が仁王立ちで立っていたのだ。まるで“何か”を守るかのように、その軍人は無表情で置物のように配置されている。
「お、おい!これは一体どういうことだ!」
「む、なんだお前は」
先ほどまで無表情だったそれは、玉森を睨みつけると、部外者は帰ったと追い払った。その眼光の鋭さに気が引けたが、玉森は負けじと、軍人に立ち向かう。
「私は部外者などではない!水上……水前寺水人の友人だ!彼に呼ばれてここに来た!」
「そんな話聞いておらんぞ!」
「このわからずやめ……!とにかく私は水上にここに来るように言われたのだ!」
嘘だ、そんなことは一言も言われていない。そもそも水上に今回会津へ来ることも連絡などしていない。ただ、今の玉森には川瀬を掬うために過去の雨水が必要であるからここに居るだけだ。それなのに軍人が立っているとは思いもよらない。むむむ、と彼と睨み合いを続けていると、思わぬところからよく聞きなれた声がした。
「……その男は俺が呼んだ。通してくれ」
「水上ぃ!」
「ッ……分かった。通れ」
この声に、忌々しそうに、軍人は扉を開く。これは運がいい。だがしかし、何故蔵の中から水上の声がするのだろうか。水上は閉じ込められているのか?そう疑問に思いながらも、暗い蔵の中へと足を踏み入れると、そこには座敷童のように髪の伸びた、水上が居た。
「みな、かみ……?一体どうしたのだそれは!」
「細かいことは良いだろう。それより玉森、久しぶりだな。ここに来たということは何かあったんだろう?橋姫についても、……そうか、もう知っているんだな」
そう笑う水上の顔は穏やかなままで、軟禁されているとは思えない程である。
「そんなことよりなんだこの状況は!お前監禁でもされているのか!?一体私と会っていない間に何があったというのだ!」
「なんだ、そんなに慌てた顔をして。俺は特に何もないよ。それより玉森、何があったんだ?」
「川瀬が……、川瀬が死んだのだ。以前、川瀬が水前寺の蔵に過去の雨水があると……」
「川瀬が……?」
先ほどまで携えていた穏やかな笑顔とは一転、キョトンとした表情になる。だがすぐに落ち着きを取り戻し、水上はよっ。と立ち上がり、棚から酒瓶を取り出す。
「これが俺が最後に溜める事の出来た新しい雨水だ。跳躍の仕方は知っているんだろう?」
「あぁ知っているが……理由を説明しろ!どうしてお前はここに捉えらえている!お前は水前寺の酒造を継いだのではなかったか!」
「なぁ玉森。ここまで来たということは、お前が本気で川瀬の事を掬いたいと思っているんだろう?次の世界では川瀬の事、掬ってやれるといいな」
そう言うと、水上は酒瓶を床に叩きつけ、あろうことか玉森の腕を引っ張り、即座に出来た水たまりへと引きずり込んだ。
「ちょっと待て!水上!私はお前の事を何も――!」
「さよなら、玉森」
その表情が、まるでいつも梅鉢堂を去る彼の姿と、いや、正確に言うと、あの繰り返した雨の日の彼の表情に酷似していて、酷く胸が苦しくなった。ぽちゃん、と水溜りに落ちた頃には自分は市電の中に居て、そこにいたはずの水上の姿は消えていた。
◆◆◆
「……玉森?どうしたんだ、こんなところで?」
そこには呆けた顔の水上がこちらを覗き込んでいた。髪は長くない。過去に戻ることが出来たのだろう。だがしかし、気になることが多すぎる。
「みな、かみ……、かわ、せ……?」
玉森は混乱した頭の中で、“掬う” その言葉の意味を、考え続けていた。