【川玉】その温もりは  

【川玉】

 その温もりは



 鬼の霍乱。あの川瀬が熱を出した。私には「近寄ラナイデクレル」とただ一言残し、部屋に閉じこもったが、いくら為替が普段私に対して鬼畜生であったとしても、熱を出している奴を放っておく程私も酷い人間ではない。自分の事を善人だとは思っていないが、この時ばかりは善人と思っても良いだろう。と、粥を作り彼の部屋の前に来たわけだが、扉を叩いても何も反応は無い。草臥れて帰ってきて其のまま珍しく風呂にも入らず、着替え、ベッドに潜り込んだ。そこからまだ1時間も経っていないはずだ。もう一度扉を叩くが相変わらずだ。もう眠っているのだろうか。盆を片手に扉を開くと、そこには寝息一つ立てず眠る川瀬の姿があった。ベッド横の机に盆を置き、彼の顔を覗き込む。

(まるで死んでいるようだな)

 不謹慎な話である、とは自分でも思う。それほどまでに彼は眠る時に音を立てない。一度寝たらピタリと動かず、少なくとも私が彼と寝たうえで、寝相に邪魔された事は一度もない。むしろ私が「君ハ本当ニ寝相ガ悪イネ」と呆れた顔をされるくらいだ。それに、普段彼は私より後に眠り、先に起きる為、彼の寝顔をまじまじと見る機会はほとんどないに等しいのだ。ここぞとばかりに寝顔を眺めても、眉一つ動かさない。体調が悪い予兆があったのだろうか。早く気付いてやれれば良かったと後悔に苛まれるが、弱みを見せたがらない男だ。いくら体調が悪かったとしても、それを私に話すことは無いだろう。

「それにしても、本当に芸術品のようだな……」

 私は川瀬の顔を一番美しいと思っている。彼が絵画のモデルになり、その絵が美術館に飾られていたとしても何ら違和感を抱かず、美しいと感嘆する事だろう。其の睫毛の長さたるや。文句の一つも付けられぬほどの綺麗さを持ちながら、川瀬は私の事を綺麗だと言う。難が在るとすればその審美眼と性格だろうか。

 そっと陶磁器に触れるように、額に手を添えると、確かに熱い。これは相当な高熱が出て居るに違いない。濡布巾でも持ってきてやろうと、一度部屋から出、風呂場へと向かう。水を汲んだ桶を抱え、布巾を絞り、川瀬の額に載せても表情一つ変えない。余程深く眠り込んでいるのだろう。高熱の中表情一つ変えない彼に、妙に胸がざわついた。私は机から椅子を引き、彼の前に座り左胸に耳を当てる。するととくり、とくりと確かに時を刻む命の音が聞こえた。その鼓動に安心し、つい眠気が襲ってくる。普段眠る時に彼の心音を聞いているからだろう。うとうととし、眠りに着こうかと思ったその時だ。急に上から気怠げな声が降ってくる。

「ねぇ。重いんだけど」

「なっ……!川瀬!起きていたのか!?」

「君が入ってくる音で起こされたんだよ。全く、入ってこないでって、俺言ったよね」

「私はだな!弱ってるお前に飯を――」

すると眼を机へと向けると、粥が目に入ったのだろう。大きな溜息を一つ吐く。全く人が飯を作ってやったというのになんだその態度は!普段は「アリガトウ、オイシイヨ」と感想を述べてくれると言うのに。

「いらないなら私が食べる!お前は黙って寝てろ!お大事にな!」

「ちょっと……大きい声出さないでよ。頭に響くんだけど」

「知らん!」

「煩いな……そもそも起こしたのは君でしょ。責任、取ってくれるよね?」

「責任って……」

 一体何をすればいいというのだ。黙って出ていけと言う事だろうか。そういう事ならこれ以上ここに居る理由もない。出て行ってやろうかと思えば、突として川瀬に腕を取られた。

「ねぇ、俺はさっき君が測った通り熱で動けないんだ。粥、食べさせてくれない?」

「はぁ?それくらい自分で……」

食べろ、と続けようと思ったものの、確かに今も彼の眼は熱っぽく、どこか虚ろである。口が普段と変わらず達者である故に、思ったより平気そうかと思ったがそうでもないのか。普段より腕を取る力も弱い。これは、食べさせた方が良いのか。うぅん、と唸りながらも、右手を握る手が心なしか不安げで、その体温を振り払うことは出来なかった。

「仕方ない奴め……」

 まだ粥は湯気を立て、そのまま口に運ぶと火傷してしまうのではないかと不安になる。一度スプーンですくったそれを自らの吐息で冷まし、川瀬の口に運んでやると、川瀬はもくもくと咀嚼し、飲み込んだ。

「おいしい。卵がゆ?」

「そうだ。私がいつも熱を出すとばあちゃんが作ってくれたのだ」

「君のおばあちゃんが?そう、君はこの味を食べて育ってきたんだ……」

どこか感慨深そうに粥を見つめ、モウ一口チョウダイと強請る。そしてもう一度冷ましてから彼に食べさせると、にゃは、とつい笑い声が漏れてしまった。

「何、いきなり笑いだして。気持ち悪いんだけど」

「いや、こうしているとまるで親鳥の気分を味わえてな」

「俺は雛鳥ってこと?気分悪いなぁ。立場で言うと逆でしょ」

「いつもはな!ただこうしているとお前がまるで私に縋っているようだ」

「……普段から、俺は君に……」

「えっ」

「なんでもないよ」

 そういうと、ハヤク、と次を急かしてくる。もしかしてこの男は食器を空にするまで私を逃さないつもりでいるのだろうか。いったい何度粥と奴の口を往復しなくてはいけないのだろう。しかし普段より覇気の無い彼を見てそう無下にもできまい。仕方ない。と餌をやる気持ちで彼の口に次々と運んでやり、最後の一口を食べさせると、彼はアリガトウの一つもなく、「ソノ食器チャント洗ッテネ。ジャア俺ハ寝ルカラ。オヤスミ。」と、布団に深く潜った。いくら声をかけてもまるで耳栓でもしているかのように反応しない所を見ると、もうこれ以上ここに居るのもよした方がいいのだろう。仕方ない、と空の皿と盆を持ち、部屋を去ろうとする。だがその前に一言だけ川瀬に言っておくことがある。

「布巾は一時間おきに取り換えに来るからな!その度に起こされたと言われては私もたまったものではない。きちんと眠れ!」

 そう言い残し、川瀬の部屋を後にした。あれでも奴は私に甘えてきたのだろうか。それにしては普段と変わらずだった気もしないでもないが。傍に居てやれば良いのか、と思うがあの状態ならきっと何を言っても聞く耳を持たないだろう。それなら放っておくのが一番というものだ。せめて早く調子が戻るように。そう思い、私は台所へと向かった。



***



 遠くに玉森くんの足音が聞こえる。彼はもう出て行っただろうか。今現在流行しているウィルスは少ないものの、もし熱が彼に移ってしまい、それが悪質な病気だった場合、彼に負担をかけることになる。そもそも玉森くんは昔から病弱だ。自分の体調管理能力が欠けていたことが悔やまれる。……本当は傍に居て欲しい。幼少期の頃から思い返しても、熱を出しても誰かが隣に居てくれた記憶はない。ただ、そう言った自分のエゴよりも、玉森くんの体調の方が心配だ。もし玉森くんに何かあったら、それこそ俺が付きっきりで世話をしないと不安で仕方がない。

 玉森くんは、先程俺が縋っているようだと言った。事実だろう。実際に俺は玉森くんと言う存在に生かされ、玉森くんに対してすべての感情が呼び起こされている。だから今こうして熱を出し寂しいと感じているのも、傍に玉森くんが居なければ湧き上がらなかった感情である。

 眠りにつこうにも、どうも感情が邪魔をして眠りにつけない。そう言い、15分経った頃だろうか。またカツカツと玉森くんの、ほんの少し忍んでいる足音が聞こえた。するとそっと扉を開き、先程のように椅子を引き、俺のベッドへと腕を組み、頭をコテンと載せる。

「馬鹿め。こういう時位、素直になればいいのだ」

 そう言い、玉森くんはそれから間もないうちにすう、と寝息を立て始めた。

――全く、これだから君は。

「馬鹿は君の方だ」

 俺が玉森くんにどれだけ救われているかなんて、きっと君は知らないんだろう。ベッドに新たな温もりを感じていると、ふっと襲ってきた眠気に、俺はそのまま身を委ねた。